「ここは危険だ、おみっちゃん逃げよう」 「そんなこと突然言われても・・・」
そう、静かにつぶやくと、おみっちゃんは手をかざしながら晩夏の太陽を見上げた。
「久さんがうちに来て何年になるのかな・・・」
「たしか・・・かれこれ五年になるかな」
「そうよね、私まだちっちゃい子供だったものね。 ううん、今も子供ね。いつまでたっても久さんには追いつけない」
久太郎は小さく溜め息を吐いた。そう。わかっていたのかもしれない。 早過ぎたこの手紙。遅過ぎた告白。 老いた大黒屋を捨て、どこの馬の骨ともわからぬ男にたぶらかされるわけもない。 父のためにけなげに尽くす娘。 久太郎は自分でもわからない激情にかられ思わずみつをかき抱いた
「あっ・・・」
みつは一瞬驚くそぶりを見せたものの、たちまち崩れるように 久太郎の腕の中に身を任せた。どのくらいそうしていただろう? 久太郎がきまり悪いそうに腕をゆるめると、 みつは照れたような笑いを浮かべ、目を閉じた。 その刹那、何者の殺気を感じた久太郎はみつを押しのけ、 自分は身を屈め飛来する何かをよける。二三歩後ろによろめいて倒れるみつ。 二人のいた場所には独特な形の手裏剣が深々と刺さっていた。 気配を感じた久太郎は路地にある樽を気合一閃、刀で大きく切り裂いた。 すると黒い人陰がぱっと飛びのくように太陽を背に大きく宙に舞い、 ぴたっと屋根の上に着地した。
「あの手紙を受けてなお、女といちゃいちゃとは、随分気楽な奴だな」
「貴様、何者だ?」
「人に名を問う時は己の名を名乗るのが礼儀だとおもっていたが・・・ 水戸では礼儀も違うのか?」
「これは失礼。俺は大場家の久太郎だ」
「雑賀の正太と申す」
「すると仏滅の手紙は・・・」
「わかっているなら、話は早い。覚悟!」
再び飛んだ手裏剣をよけて、久太郎はみつの側へ転がった。 「大丈夫?」
「はい」
みつが泣きそうな顔をしながらもうなずいた。 そう、おみっちゃんはまだまだ子供だったんだ。 「俺はこの先彼女を守りきれるだろうか?」久太郎は自問する。「 「あそこに梯子が立てかけてあります」
みつは屋根へ向かって立てかけた梯子を指差す。 確かに地上から屋根の上を相手にするのでは埒があかない。 久太郎は思い切って梯子を足がかりに屋根へと飛び上がった。 足場が不安定だ。この状態でみつを守りながら勝てるだろうか? 久太郎は不安を脳裏に埋めて正太と向き合った。 屋根は予想以上に高かった。たかだか一階上がっただけなのに景色は激変する。 江戸の夏風が風鈴を鳴らし遠くから金魚売りと納豆売りの声が聞こえる。 遠くの銭湯からは湯気が立ち消える。 そう、こんな情況でなければ久太郎は江戸の夏を堪能できただろう。
「思い残す事はないか?」
「さぁ?こんな目にあうのは初めてだからな」
「それでは本気で行くぞ。覚悟はいいな?」
「お手やわらかにお願いしたいものだな」
みつは思わず瞼を閉じた。
すると、何をおもったか正太はすたっと飛び降りてみつの方に向かった。
「まずはこの目障りな娘さんにちょっと黙ってもらうぞ」
「いや、放して」
彼女は顔を両手で覆うといやいやをするように地面を踏みならした。
「四の五の言わずにおとなしくなりやがれ!」
正太は彼女の両手をはらいのけると 胸元を無理矢理こじあけ、小刀のようなものを突き刺した。 乱れた着物の内側から鮮やかな色の血が染み出した。 顔を伏せているので表情は見えないが、 体中が苦しそうにひくひくと震えているのが屋根からも見える。 「どうして・・・」
おみつがささやく。
「何を寝ぼけた事を言っている?お前も密書を見たのであろうが!」
「そんな事・・・」
魂が抜けたようにぐったりと道に崩れ込むみつ。 それを呆けたように見下ろす久太郎の頭の中では、 混乱と妙な平常心が渦巻いていた。 遠くで蝉の声がした。 しばらくして、裾の埃をはらいながら、正太がゆらっと立ち上がる。 自分の頬についた液体に手を触れて不思議そうな顔で見上げる。
「ほう、返り血を浴びてしまったか。不覚だな。 血の染みは落ちにくいので厄介なのだが・・・」
誰に言うとでもない。 その言葉に久太郎は我にかえると、うぉおおおおっと叫んで地面に飛び降りた。 右足がぐきっと痛むがそんな事は気にしていられない。 全ての力をこめて襲い掛かる久太郎に正太は路地の行き止まりに 追いつめられた。
「ふ、これで勝ったと思うなよ」
捨て台詞を残すと、その隠密は煙玉を放って消えた。

久太郎が近寄ると、みつは痛々しいまでににっこりと微笑んだ。 いや、微笑もうとした、というのが正しいかもしれない。
「太陽ってこんなに眩しかったんだね・・・」
「みつ、大丈夫だ、気をしっかり持つんだ。今医者を呼んでやるからな!」
空虚な言葉が乾いた街を駆け抜けていく。 その刹那、みつはニヤリと笑うと、久太郎の懐に深々と何かを突き立てた。 焼けるような熱さを胸に感じ久太郎は一瞬目の前が暗くなるような感覚に 襲われ、倒れ込んだ。 「まんまとひっかかったな」
その言葉とともに先ほど雲隠れしたと思われた正太もどこからともなく現れる。 「よくやったな、ゆう」
「ああ、これで桜次郎の怨みも晴らせるってもんさ」

そうか、みつが刺客だったのか・・・。

久太郎はみつと初めて会った時のことを思い出していた。 湯田屋の表でみつが水を撒いていた、あの五年前の暑い日のことを。 五年もの間、彼女は桜次郎の敵討のために機会を待っていたのか・・・。 みつは逆手に構えた匕首のような刃物をふりかざし、 無抵抗の久太郎に何度も襲いかかる。道が流れる体液で朱に染まっていく。 「そうだ。誰も信じちゃいけなかったんだ、 でも・・・ずっと俺はこれを望んでたのかもしれない・・・な・・・ 愛するものの手でこうして葬られることを・・・だが・・・」
薄れ行く意識の中で久太郎は最後にこう思った。
「いやはや、ありゃりゃ、であるですぞ」

久太郎の冒険は終った。
悲しみの裏切り編(完)。バッドエンディング。


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