それはある実験室での出来事であった。
その日、突然現れたゴキブリの大家であるY教授は我々に学校の裏の「山」へ、微生物取りに行くことを 命じた。学校とは三鷹のはずれにあるK大のことである。I大と言ってもいいかもしれない。K大の周辺は緑が非常に多い。そしてまた、K大も緑に溢れる宏大なキャンパスを持っている。近頃は財政難のためか、年々その敷地は狭くなる傾向にあるが、それでもなお「山」と呼べるような土地が学校の裏手には広がっているのである。通常、普通のまともな生徒ならば決して足を踏み入れることのない、西側の薮をかき分けてゆく。するとそこには、沼があったり、クレソンやワサビの生える沢があったり、登山道もどきがあったり、朽ち果てた日本庭園の残骸があったりするのである。未確認情報としては、「防空壕」があるという噂も耳にした。Y教授はひとりで準備万端、長靴に防水用の服、タオルという格好であったが、ヒ−ルの高いサンダル、革靴、キャミソ−ル、スーツといった格好をしていた我々は否応無しに微生物取りに駆り出されたのであった。新学期早々の1回目の授業の事である。新品の革靴をふくらはぎまで泥につっこんで泣きそうになる者、むき出しの肩が蚊に刺されてぼこぼこになる者が続出した。また、教授というよりむしろ研究者肌のK教授が微生物取りに夢中になるあまり、先を歩かざるを得なくなった我々は遭難しそうになったりもした。
何はともあれ、実験室にたどりついた我々に、次に課されたタスクとは微生物を実体顕微鏡でスケッチし、名前を調べ提出することであった。こんなとき、なぜか微生物にはヒエラルキィが存在する。プラナリアなどは人気があってなかなか順番がまわってこないのだ。しかたなく私はボウフラのような線虫とカワゲラというエビとバルタン星人のあいだのような(、のくせに体長3mm)ばけもの虫どもをスケッチしていた。例のごとく持病の偏執気質がたたってたった2匹を描くうちに、あたりを見回すと大方の生徒は帰っていた。と、そのとき今まで人気があって覗けなかったプラナリアがあいているではないか!私は迷わず次のタ−ゲットをそれにすることにした。プラナリアは肉食である。あんなかわいい顔をして、肉食なんである。どうやってそのプラナリアを捕まえてきたかと言うと、腐ったサワガニの死体をそのまま持ってきたのである。顕微鏡を覗くと、おみそがべろべろになって変色しているサワガニがまず目に飛び込んできた。足は4本ずつバラけているし、突きまわされたせいで目がぽろっと隣に落ちている。そして顕微鏡を覗くあいだは押さえることのできない鼻から入ってくるえも言われぬ生臭いにおい。、、、その灰色がかった青い甲羅の上を悠々と這い回る「そいつ」こそが今日の主役であった。お分かりのとおり、プラナリアには数種類あるが、よく理科の資料集なんかに載っているスマートなやつなんてかわいいものだ。私が見た「そいつ」は頭さんかく、からだでっぷり、の蛭とまちがえそうなやつだった。そのときのことである。「そいつ」は体内に透けて見えていた白いびらびらを肛門らしきところからすべて吐き出したのである。どう考えても内臓とか、体液にあたる部分である。私には「そいつ」が身体を裏表反転させたかのように思えた。その前から、サワガニのおみそでかなり脱力していた私は、その、あまりの気持ち悪さにしゃがみこんでしまったのだった。
今考えても、あのとき一体何が起こったのか分からない。